一刀流 3
一刀流 3
天正年間、戸田一刀斎(北条氏の家臣、古藤田俊直【古藤田一刀流、または外他一刀流、唯心一刀流の祖】を高弟としていることから、この戸田一刀斎は伊東一刀斎に間違いなさそうであるとされています。)が諸国武者修行の途中、相模三浦三崎に立ち寄り、そこで多くの入門者を取ったとされています。このときのエピソードとして、天正6年(1578年)に三浦三崎に唐人が来航したときに十官という中国刀術の名人がいて、一刀斎は扇一本で木刀を持った十官と試合し、勝ったといわれています。
晩年、一刀斎は弟子の善鬼(姓不詳)と神子上典膳に下総小金原で、仕官と秘伝書を賭けて勝負させ、典膳がこれを打ち破って一刀斎の愛刀「瓶割り」と秘伝書を受け継いだそうです。善鬼は技にかけては師の一刀斎を上回る剛剣の使い手でしたが、平常心を失って破れたと言います。典膳はこれを機に名を小野次郎右衛門忠明と改め、江戸に出て仕官し、柳生家より先に徳川将軍家御指南役に選ばれました。その後一刀流は、小野忠明の後、子の小野忠常の小野派一刀流、次子の伊藤典膳忠也の伊藤派一刀流に分かれ、以後も多くの道統が生まれました。
一刀流に限らず、格闘技・武道・武術の技術に関しては、動く映像を見ることが一番です。所謂、伊東一刀斎の一刀流に関するものは、あまり見かけませんが、小野派一刀流に関してなら一刀流極意 第1巻[DVD]―小野派一刀流十七代笹森建美宗家

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一刀流 2
一刀流 2
一刀斎は、中条流の鐘捲自斎に剣術を学び、妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣を授けられたとされています。その他にも、愛人に欺かれて刺客に寝込みを襲われ、逆襲したときに生まれたという秘大刀「払捨刀」、刃引・相小太刀・越身、鶴岡八幡宮に参籠して無意識のうちに敵を斬り、悟りを得たという「夢想剣」などの極意を自ら編み出しています。その後、一刀斎は諸国を遍歴しながら名のある剣士と33度勝負し、一度も敗れることは無かったそうです。
ある程度まともな武家出身の武士が創り出した他の戦国時代の流派に対して、一刀流が、無駄な技巧を排除した剛直な剣技であったことは、一刀斎の出自が定かでなく、余分な形式美にこだわる必要が無かったということに関わりがあるのかもしれません。全ては「剣にあり」…この考え方は、彼の門弟、御子神典膳にも受け継がれました。

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かつて火盗改長谷川平蔵の同心として活躍した斎藤新九郎は、盗人たちが恐れる存在だ。ある日、一刀流皆伝の腕を見込まれた新九郎は、平岡美濃守頼長より、将軍家斉の密命を受けることになる。だが、密命の内容は、伊能勘解由率いる測量隊の護衛という意外なものであった。測量隊に何か秘密が隠されているのか?新九郎らを襲う盗賊の刃。その凶刃は、伊能を狙うものなのか。一刀流の閃光が悪を斬る、書き下ろし時代長篇。
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一刀流
一刀流
戦国時代末期、中条流の剣客で「剣鬼」とまで呼ばれた剛剣の使い手、伊東一刀斎景久が開いた流派です。「一刀流」とは、一刀斎が生前自ら名乗っていた流名ではなく、死後に命名されたといわれています。その謂れは一刀斎が、敵を常に一刀で倒したからであるといわれています。
一刀斎の経歴には諸説あり、どれが正しいかはっきりとはしていません。生没年も様々です。伊豆国伊東の出身で、出身地から伊東姓を名乗ったと一般的にはいわれています。また「瓶割刀(代々一刀流剣術の当主に受け継がれたとされる剣。現在は所在不明。)」の逸話によると、一刀斎は伊豆大島の出身で、14歳のときに格子一枚を浮き輪代わりに三島に泳ぎ着き、三島神社で富田一放と試合をして勝ちを治め、神主から宝刀を与えられたとなっています。更にこの刀で盗賊7人を斬り殺し、大瓶に隠れた最後の一人を瓶ごと二つに斬ったそうです。出身地に関する他の説には、西国、近江堅田、加賀金沢、越前敦賀があります。また、人生の最期を迎えた地についても丹波篠山説や、弟子であった敦賀城主大谷吉継が関ヶ原の合戦で戦死したために浪人となり、下総小金原に隠棲して死去したともいわれています。
時代小説等に度々登場する武術流派、一刀流ですが、有名なのでしっかりとした資料が残っているのかと思っていたら、やはりよくわからないことが多いのですね。個人的な勝手な印象としては、無駄な所の一切無い剛剣といったイメージを持っています。地味だけど、ものすごく強い感じがします。

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新陰流と並び日本の剣道を代表する流儀である一刀流。しかしその流祖伊藤一刀斉の伝記すら取り止めのない状態で、その歴史は末流師家の誤った伝承に左右されている。改めて古伝書の類を見直し、歴史の正説として提示する。
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中条流 4
中条流 4
中条流の使い手であった富田勢源は、眼病を患いながらも小太刀の名人で、彼の中条流は特別に「富田流」と呼ばれました。勢源についての逸話も数々残っています。
勢源が美濃に逗留していた時、武術に造詣の深かった当時の美濃領主、斎藤義龍が抱えていた梅津某という兵法者が、勢源に試合を望みました。しかし勢源は、どうしてもと言うのであれば、越後に甥の重政がいるので、そちらを訪ねろと断ったそうです。これを聞いた梅津は、勢源が自分と闘う事を恐れていると侮り、更に、自分は、闘いであれば、自分の領主であっても容赦しないと言い放ちます。このことが主人である義龍の耳に入り、そこまで言うのであればと勢源に使いを出し、梅津との立ち会いを命じました。領主義龍の命令を断れなかった勢源は、梅津と立ち会うことになりました。
立ち会いの当日、勢源は真剣ではなく薪を持って立ち会いに臨みました。これに梅津は憤慨し、是非真剣でと申し出ます。しかし勢源は梅津が真剣を使うことを了承し、自分は薪で相手をすると言います。仕方なく梅津は真剣での立ち会いを諦め、木刀を構えます。大柄な梅津に対し、小柄で、しかも目の不自由な老人である勢源に勝ち目は無いと思われました。ところが、試合は、勢源の薪による梅津の額への一撃で決まってしまいます。更に脇差を抜いて反撃しようとする梅津に対し、勢源は留めの一撃を加えます。梅津は絶命します。あまりの精妙な術技に感服した義龍は、しばらく美濃に滞在するよういいますが、勢源は辞去してしまいます。何とも日本人の心を熱くするようなファンタジックなお話です。

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中条流 3
中条流 3
中条流で特に名高いのは、富田九郎左衛門の子、五郎左衛門入道勢源です。五郎左衛門は眼病のため家督を弟の治部左衛門景政に譲り、自らは出家して勢源と号しました。目を病んでいながらも、小太刀の名人で、彼の中条流は”富田流”とも呼ばれていました。現代も残っている戸田派武甲流薙刀術は富田勢源(戸田清眼)を祖としています。
富田勢源の弟である治部左衛門景政もまた優れた武術家で、前田利家に仕え関白秀次にも武術を教えていたそうです。治部左衛門の弟子には鐘捲流の始祖、鐘捲自斎通家がいます。自斎の弟子として有名なのは、一刀流の創始者である伊藤一刀斎景久です。この系統が現代の鐘捲流、小野派一刀流、溝口派一刀流、北辰一刀流などに繋がっています。
治部左衛門の娘婿の山崎六左衛門は富田家を継ぎ富田越後守重政と名乗り、「名人越後」と呼ばれるほどの武術家で、富田流の名を更に高めました。現代に伝わる気楽流柔術は富田(戸田)越後守が創始したと伝えられています。

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中条流 2
中条流 2
中条流は中条兵庫頭長秀によって創始された流派です。念阿弥慈音という僧が日向国、鵜戸権現で夢の中で得た刀術を兵庫頭に授け、その刀術に、中条家に伝わっていた刀術を合わせて工夫したものだといわれたり、慈恩の師の寿福寺神僧栄裕から学んだともいわれています。
その後、中条流は中条兵庫頭から甲斐豊前守広景、大橋勘解由左衛門高能、富田九郎左衛門長家へと受け継がれました。この富田一門で、九郎左衛門の子、五郎左衛門入道勢源、勢源の義理の甥の富田越後守重政、勢源の弟子の鐘巻自斎という達人を輩出したので中条流は富田流とも呼ばれるようになりました。
中条流が具体的にどのような戦闘技術を有していたのかは定かではありませんが、相手を倒す事に関しては、シンプルでありながら激しい剣技を振るい、また精神面では、戦場において死をも恐れぬといったような勇猛果敢さがあり、戦国期以前の武術としては典型的なものであったであろうと想像できます。奥義としては妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣などがあります。また、佐々木小次郎の有名な剣技「燕返し」は、別名「虎切り」ともいわれており、この「虎切り」は中条流の秘伝であるといわれています。

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中条流
中条流
神道流、陰流、念流などと並んで多くの剣術の祖となった流派が中条流です。剣術以外にも小太刀や槍術の技術も伝える総合武術であったようです。中条兵庫頭長秀によって創始されました。中条家には代々、剣術が伝承されていたそうで、その技術を体系化したのが流祖の兵庫頭長秀です。
創始者である中条兵庫頭長秀以外に、中条流の名を高めた人物は、何といっても盲目にして小太刀の達人富田勢源、勢源の義理の甥の富田越後守重政、勢源の弟子の鐘巻自斎です。
中条流は、戦国期には比較的広く普及していたので、江戸初期までなら、当時の剣客で中条流と何らかの関わりがあった者も少なくは無かったのではないでしょうか。例えば、一刀流で有名な伊東一刀斎は中条流の鐘捲自斎に師事したことがあるため、一刀流はこの流派の系列とされています。また、宮本武蔵と巌流島で闘った佐々木小次郎も鐘巻自斎に剣術を学んだと言われています。

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当身技 7
当身技 7
合気道・合気柔術は、古流柔術からみるとかなりの部分の技術が削除されていますが、仮当て(体勢を崩す事を主目的とした当身)・本当て(相手を倒すことを目的とした当身)の技術は諸流と比べても遜色はありません。古流柔術の当身技には仮当て・本当て以外にも「砕」と呼ばれる当身があります。本当ては力を浸透させるような当てで、「砕」は流儀によって解釈に違いがありますが、本当てとともに武器を使った打撃も含まれます。手に隠れるような小武器や隠武器の類は諸流に見られます。
現在の合気道では、手刀以外の当てを教える事はあまりありません。これは合気道がよどみない動きを重要視しているためだそうです。しかし、本来は相手の虚を突いた当身や、崩しに使用したりする形となっていたようです。
古流柔術と関係の深い剣術における当身は、小具足ともいわれ、柄頭・鍔などを用います。具体的な技術としては、間合いが詰まって剣による攻撃が難しくなった時などに、柄頭・鍔・鞘・鞘頭・背刀で峰打ちなどを使った当身技を使用したようです。きちんと伝承された技術として剣術に当身技が組み込まれていたようです。

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当身技 6
当身技 6
合気道は大東流合気武術を元にして、植芝盛平によって作られた武術ですが、基本的技術は大東流をそのまま採用しています。当初、植芝翁が大東流をそのまま教えていた事は、資料が残されているので良く知られていることですが、当身技も教えていました。両手拳同時突きや、いわゆる手刀打ち、膝蹴りなども見られます。当身のポイントとしては、残心の必要性・連続攻撃・捌などの一連の流れの中での当て・引き込みによる動脈への当身・カウンターの重要性・蹴りは回り込んで対処する・沖縄空手には三連打・内側転身は、同時二段打ちが必要・蹴りに対する一足一当の効果・相手の攻め手を防ぐための当身・防御より先手・武器には一足一当・上下の連打などが挙げられています。
こういった合気道の技術も取り入れた、講道館流護身術は、大きく分けて徒手の部と武器の部の二つに分かれています。徒手の部は更に、組み付かれた場合と離れた場合の二つに分けられ、武器の部は短刀・杖・拳銃の三つに分けられています。
講道館柔道はオリンピック競技として取り上げられるほど世界に広まり、競技を重視した稽古がメインとなったため、当身技や関節技の技術進化は止まってしまいました。しかし、嘉納治五郎は古流柔術の保存や他の武術の修行を門下生に奨励するなど、総合格闘技を作る構想があったようです。しかし、目覚しい発展を遂げていく講道館の流れの中で、こういった構想は立ち消えになったようです。極真会館の大山倍達や、松涛館流空手の船越義珍と同様に、公人として組織をまとめてゆくためには、個人的な意見は捨てなければならなかったということでしょうか。

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当身技 5
当身技 5
当身技を重視した構成となっている、古流の形に近い、講道館柔道の「極の形」は、当初「真剣勝負の形」として十三本が制定され、更に七本を加えて現在の形になったそうです。形の作成には、古流柔術からも十七名選んで委員会をつくったそうです。当初、古流側からはかなりの反対意見が出ましたが、一般に普及しやすいかどうかを古流柔術と比較して全員一致で承諾されたそうです。
その後、「極の形」は、時代に合わないことや、術数の少なさ、技術的不備などの理由で廃れ、新しく編み出された講道館流護身術に取って代わられます。昭和三十年に完成した講道館護身術ですが、その作成には、講道館の高段者二十五名が関与し、この中には、起倒流柔術など古流柔術や柔道以外に合気道を学んだ人物もいました。
もしも「極の形」が、その後、更に改良が加えられ、当身技を含めた新しい柔術、総合格闘技として現代まで受け継がれていたら、現在行われている総合格闘技の試合はもっと面白いものになっていたかもしれませんね。

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当身技 4
当身技 4
日本の武術において、当身技が登場したのがいつ頃なのかはよくわかっていませんが、相撲に伝説として残されている、野見宿彌と當麻蹴速の闘いには蹴りが多用され、野見宿彌が當麻蹴速を踏み殺したといわれています。相撲の行司家である吉田司家の古伝には、初期の相撲の技術には「突き・打ち・蹴り」の三手のみであったということが書かれているそうです。
日本では武器の製造と、その武器を使用するための技術が高度に発展し、打撃技術が中心の流儀が発展しづらい土壌であったようです。また日本人の国民性からか、投げ技・関節技といった技術の精妙性を重視したということもいわれています。さらに打撃技が相手に与えるダメージが一定ではないためだという事もいわれています。打撃技が人体に与える影響には違いがあるという研究結果もあるそうです。実際の闘いの中では自分も相手も動き回りながら攻防が行われるため、ここぞという所で倒すことができなかったり、逆に相手を制圧するだけのつもりの打撃技で、相手を死に至らしめてしまう場合もあります。日本の武術は組み伏せて首を刈る、あるいは生け捕りにするという戦闘法を重視したため、相手に与えるダメージにむらのある当身技を重視しなかったということでしょう。現代の打撃系格闘技のように、打撃技をもって相手を倒すという考え方とは趣を異にしています。どちらかというと、組み技、関節技を得意とした総合格闘家の闘い方に近いものであったようです。

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当身技 3
当身技 3
多くの日本古流の柔術には握り方に共通点が見られます。中高一本拳と親指を他の四指で握るものがあります。後者の拳の作り方は荒木流をはじめとしたいくつかの流儀に見られます。これは相手を打ったときに親指を痛めないためと、親指の逆を取られないようにするためとされています。また、急所を打ちやすいなどの利点があります。
日本柔術の当身では現在の空手のように手の甲を上に向ける突き方はほとんどありません。多くは縦拳か逆に手の甲を下に向けて突きます。これは柔術の戦闘法がかなりの接近戦であるため、拳を回転させると手首・肘・肩などの逆をとられやすくなるためだとされています。柔術では拳を使って顔面を突くことはあまり無く、手刀や掌底、裏拳、鉄槌を使用することが多いです。おそらく、体の中でも比較的堅い頭部を拳で突き、突いた拳を痛めると、その後の攻防に差し支えるためであろうとされています。また拳よりも掌底の方が脳にダメージを与えやすいという所もあったかもしれませんね。組み付かれた場合には頭突を使用することもあります。腹部の攻撃には拳・手刀・肘・足等を用い、蹴り技は腰から下の場合が多いです。腰から上を蹴らないというところは古流空手と同じですね。
古流柔術の当身技の技術を見ると、とにかく”生き残るため”という思想が強く感じられます。なるべく危ない橋は渡らないようにしようという考えのもとに技術を研ぎ澄ましてきたという感じがします。やはり、剣を相手に闘うということは、これ位慎重でないといけないという事でしょうか。現在の格闘技・武道・武術が失いつつある”凄み”のようなものを感じます。

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当身技 2
当身技 2
日本武術の当身技の中でも最も簡易で即効性の高いものが「霞」といわれる目潰しです。目潰しというと2本指や3本指で、指先を目に突き入れる技を思い浮かべますが、柔術では手の甲を使って攻撃することが多いようです。それ以外にも数多くの技術がありますが、どの技も、相手に再起不能になるようなダメージを与えることなく、しかも効果の高い方法が伝わっています。この技術は「パラ手」などと呼ばれており、極真会館がその技術を取り入れたことで有名な、太気拳の組手でも使用されていたりしますが、諸賞流和術など各種日本柔術にも多く見られる技術です。起倒流柔術など日本柔術を元にした講道館柔道にも、その古式の形の中に「柳雪」に片手霞、「岩波」に両手霞として、その技術が残っています。現在の講道館柔道は、投げ・絞め・固めなど組み技を主とし、当身技のない武道ですが、古流に近い形の中には当身を重視したものが残っています。例えば、居取と立合から成る「極の形」には、居取に「両手取・突掛・摺上・横打・後取・突込・切込・横突」の八種が、立合に「両手取・袖取・突掛・突上・摺上・横打・蹴上・後取・突込・切込・抜掛・切下」の十二種があります。具体的な内容を挙げてみると、「両手取」では膝による水月への攻撃があり、習熟してくると、膝蹴りから前蹴りによる攻撃に変化していきます。この当身技の後、脇固めなど関節技へ移行します。もう一つ例を挙げると、「突掛」では相手の突きに対して体を開いてかわしながら兎鳥を攻撃します。これも、当身技で攻撃は終わらず、この後に腕と首を極めます。
もしも、柔道の試合のルールで当身が許されていたとしたら、一体どんなものになっていただろうと想像してしまいます。せめて、当身技を含めた柔道の技術を研究するグループが、町道場のレベルでもいいから残っていてくれたら、PRIDEなど総合格闘技の試合がもっと面白くなったかもしれませんね。

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当身技
当身技
学生時代よく、「寝技半年、立ち技一生」と部活の先輩や道場の師範が言ってましたが、動き回る相手に、絶妙の距離とインパクトで攻撃をしなければならない点、確かに当身というのは寝技と比べると難しいところがあるような気がします。日本柔術の主な技法は、関節技・投技・固技・絞技の組み合わせからなっています。これら組み技を主とすると、当身技は従という感じがします。琉球空手や中国武術のように、主に当身で形が構成されている流儀は皆無に等しいです。これは日本の武術が剣術を中心に発展したためだとみられています。また、相手を組み伏せ、身動き一つ出来ないように押さえ込むことが最上であるという日本人、武家の美意識にも関わりがあるとされています。個人的には柔道の押さえ込みのように、完全に押さえ込まれると、ものすごく敗北感を感じます。こういう感覚が日本人には備わっているのかもしれませんね。だからといって、当身技が日本武術にとってあまり重要でない技法であると言うことではなく、日本武術の始まりとも言える相撲にも、元々当身の技法があり、その他の古流武術にも当身技を「殺法」として奥義にしている流派もあります。短い距離からの打撃を得意とする短打系の門派には、「短勁」、「寸勁」といった短い距離での特殊な打撃法があります。このような相手に力を浸透させてダメージを与える格闘技・武道・武術といえば中国武術という感じがしますが、日本武術にも存在しています。有名なところでは盛岡に伝わる諸賞流和術があり、荷鞍とよばれる丈夫な防具を打つ鍛錬法で技術を練り上げ、稽古でも気を抜き、受け損じれば血を吐く程のダメージを受けることもあるそうです。
ボクシングやK-1、PRIDEなどで見慣れた感のある当身技ですが、流派によっては「殺法」となっているという事を知ると、見慣れたはずの打撃技が途端に凶器に思えてきませんか?当身技の話題は長くなりそうなので、また次回に持越しです。

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陰流 4
陰流 4
陰流を取り上げた小説というのは、柳生新陰流のそれと比べると、とても少ないです。そんな中、陰流の奥義を体得した人物を主人公としている小説が牧 秀彦著「陰流・闇仕置 隠密狩り―松平蒼二郎始末帳
もう一作品は、新陰流の創始者、上泉伊勢守信綱の生涯を描いた海道 龍一朗著「真剣―新陰流を創った男、上泉伊勢守信綱

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