陰流 3
陰流 3
移香斎久忠の晩年の子で、陰流流儀継承者が愛洲元香斎宗通(通称 小七郎、後に平澤と改姓)です。年齢や時期の関係から、小七郎が新陰流創始者上泉伊勢守の師であるという説と、父親の移香斎が諸国武者修行の途中で上泉伊勢守に出会い、陰流を伝授したのではないかという説があるそうです。しかし、どちらが正しいのかは定かではないそうです。
元香斎宗通は、父である移香斎から影流を受け継ぎ、それに自分なりの工夫、改良を加え、それを称して「猿飛陰流」と呼んでいたそうです。ここで影流は少し内容が変わったと考えられています。「平澤家伝記」という書物の中に、「陰之流私」という元香斎宗通が記したものであるといわれている文書があり、陰流の具体的な内容が、比較的わかりやすく書かれています。それによると「それ兵法とは、受(儒?)者道の根源なり」と、陰流の根本理念から始まっており、勝負は「懸待」と「表裏」の二点によって決まると述べられています。稽古法には大きく分けて、初手、中手、極位と三段階あります。初手には、立つ所・見る所・切る所・足さばき・太刀の扱い方の5つの稽古が具体的にわかりやすく説明されています。中手には3つの要点があげられており、臆病が最大の敵と戒めています。極位には、合処と不合処の2点があげられており、心・目・左足を一致しなければ勝つことは出来ないという事が述べられています。
影流は中国の明へも伝わっており、明の武術書「武備志」の中の「影流之目録」という項で、猿飛・猿回・山陰・月影などの手法が述べられているそうです。日本国内では、その本来の姿が失われかけているのに、海外の武術書には残されているということに、ロマンを感じるとともに、少しの寂しさを感じます。

[PR] 新機能充実の格闘技用品Bスポーツ
陰流 2
陰流 2
愛洲移香斎久忠は、若い頃から積極的に刀術の稽古に励んだそうで、九州・関東のみならず、遠く明の国などに幾度も武者修行で訪れ、腕を磨いたといわれています。その武者修行で一族に伝わっていた無骨な海賊剣術を、武術として洗練されたものへと磨いていったそうです。ちなみに、戦国時代以前の剣術では3尺にもなる太刀を用いるものが珍しくなく、戦場でも有利とされていたそうです。
久忠36歳の時、日向国へ向かい、宮崎県日南市の鵜戸神宮の窟に参籠しました。21日目の夜、目の前に蜘蛛が現れ、久忠は追い払おうとします。しかし、蜘蛛はひらひらと身を躱します。久忠はその動きを見てひらめきます。その瞬間、蜘蛛は翁に姿を変え、久忠に奥義を授けます。更に、「ここから南方に住む「住吉」という者と闘い、その秘術を授けよ」と託宣して姿を消したそうです。こうして誕生したのが「陰ノ流」であるといわれています。また、ある説には、鵜戸明神が猿の姿で現れ剣の奥義を授けたともいわれています。その後久忠は翁に言われたとおり住吉と試合い、これを打ち負かします。住吉はこれを機に久忠の門下となったそうです。以後、彼は武者修行で諸国を巡りましたが、晩年になると鵜戸明神に戻って神職となったと伝えられています。享年87歳でした。
まさに、剣に生きたという感じですね。現代の格闘技・武道・武術修行者には中々難しい生き方ですね。日々剣術修行に明け暮れる人たちがどうやって生計を立てていたのか非常に気になります。剣術修行するためには食事をしなければいけないわけで、一体、愛洲移香斎久忠がどうやって食事代や生活費を稼いでいたのか気になりませんか?

[PR] 新機能充実の格闘技用品Bスポーツ
陰流
陰流
日本剣術史・兵法三大源流の一つと言われる武術が陰流(陰の流・愛州陰流・陰流)です。創始者は愛州移香斎久忠です。移香斎は伊勢(三重県)の人であるとか、日向(宮崎県)の人であるとかいう説があります。南北朝時代に護良親王の令旨を受けて宗良親王を奉じ、伊勢の守護職として北畠氏と共に南朝の為に働いた愛洲太郎判官の子孫が久忠にあたるそうです。兵法家として大成する前身については、伊勢を本拠とする熊野海賊だとか、あるいは修験者だとか、様々な仮説が出ていますが、愛洲家の生業が水軍による海外貿易と倭寇であったため、若い頃から、九州や関東、果ては明国(中国)まで渡航していたそうです。移香斎も貿易などをしていたのではないかとされています。いずれにしても、多くの古流武術の創始者に見られるように、多くが謎に包まれた人物です。移香斎が誰から剣術を学んだかは不明ですが、その内容を示す伝書の類も見つかってはいないようです。熊野水軍は、東シナ海沿海州を荒らし回った、俗にいう八幡海賊の流れを汲んでいます。その剣法は三尺もの刀を船上で用いる荒技で、当時明国では八幡海賊との戦いに相当苦戦したそうです。中国での標準的な戦闘スタイルが片手に刀、片手に盾をもって行うものだったので、両手で構えて斬りかかってくる倭寇の戦法に明国水兵は怖れたのだそうです。そのためか、中国の『武備志』に倭寇から手に入れた、陰流剣術の巻物にある形を、倭刀を持って演武する中国人の絵が書かれていることが知られています。
海賊が使用していた、実戦武術が元になっているかもしれないというのはすごいですね。実際に使用することを前提として体系化された格闘技・武道・武術というのは、陰流のみならず、凄みを感じます。海賊が刀を振りかざして襲ってくるところを想像すると、かなり怖いですね。

[PR] 新機能充実の格闘技用品Bスポーツ
神道流 3
神道流 3
剣術のみならず、槍・棒・薙刀などあらゆる武器を扱う神道流では、体捌きによって相手の攻撃をかわしつつ攻めることを主眼においています。型には、表と裏の2種に分かれた、様々なものがあります。表の型には攻撃がなく、相手が打ち込んできた技を受け止めて終わるのみのものです。表の型は、他流派の人間が神道流の道場に出稽古に来たとしても、神道流の攻撃技を盗むことができないような形にしたものだといわれています。これに対し、仕太刀(型を行う際に仕掛けてくる相手を倒す側の技。または技を披露する人物)が打太刀(仕太刀に技を仕掛け、倒される側の人物)を受け止めるという表の型の動作を排除し、体捌きによって相手の攻撃をやりすごして、逆に斬りこむものが裏の型となります。裏の型で行われる攻撃は、どの動きも刀を傷めることなく頚動脈や腱を斬るというもので、確実に相手の戦闘能力を奪う技術です。
話は本線から少しずれますが、塚原卜伝という、神道流から出た有名な剣客がいます。彼が編み出した技に「一之太刀」というものがあります。普通は現代剣道のように摺り足で、前足の右足から踏み込みますが、この技では、まず後ろ足である左足を大きく踏み出してから右足で踏み込みます。これによって踏み込みが急激に伸びます。この時代は介者剣術(甲冑を着けて腰を低く落として闘う剣術。戦場における甲冑武者剣術)が中心で、足を踏みかえる歩法がなかったため、相手はこの変則的な足捌きによってタイミングを狂わされたそうです。
神道流では昔から「試合は死に合い」とされ、試合を堅く禁じていたといいます。飯篠長威斎家直が活躍した室町時代中期、日本武道では既に「無益な戦いを戒め、慈悲を以て武の心とする」という思想が確立されていたそうです。様々なスタイルの格闘技の試合が行われている現在、もう一度こういったことに目を向けることも必要かもしれませんね。
3回に渡って神道流について綴ってきましたが、実際に神道流の動く映像をご覧になりたい方は天真正傳香取神道流[DVD]

PR [これからインターネット取引するならマネーパートナーズ]
| レッドへリング バナーを貼ってお小遣いGET! | A.C.T.webサポート 検索エンジン登録代行ならおまかせ!リンクスタッフも募集中! |
ads by infodic. | |
神道流 2
神道流 2
飯篠長威斎家直は真言密教にも長じていました。真偽の程はわかりませんが、熊笹の上にムシロをかけ、その上に座っても笹が曲がらなかったといわれています。他流仕合を申し込む者にこれを見せることによって、相手の戦意を喪失させるという、彼一流の兵法だったのかもしれませんね。彼は「真言を唱うれば、後ろ向きにても勝てる」と言ったともいいます。これもこう言っておけば、他流試合を申し込んでくる者の数を減らし、余計なトラブルを防ぐためには効果的だったかもしれません。こういったトラブルを回避するためのある種の、いい意味での方便は、格闘技を行う上でとても重要だと思います。
家直はそれまでの武術にはなかった、くさり鎌、棒術、薙刀、槍、小太刀、二刀流など百般にわたる武道の原型を創りあげましたが、門人達には「真実の武道は人の心にあり、人の道である。心の中が善であれば、武芸は人を助け世の中を平和にする。したがって自分自身を完成された人間に近づける努力をしなければならない」と諭し、人を殺傷するための武術を心身鍛練の術にまで高め、武士から庶民まで広く教えたそうです。晩年の家直は、生家の近くに如意山地福寺を創建し、その2年後、102歳で大往生をとげたということです。

PR [これからインターネット取引するならマネーパートナーズ]
| コアグルーブ webスタッフ募集!バナーを設置して3000円〜高報酬GET!! | インターコネクト ウエブリンカー募集!バナーを設置して1000〜10000円GET! |
ads by infodic. | |
神道流
神道流
兵法三大源流の一つに数え上げられる神道流のお話です。
神道流は香取、鹿島の地で受け継がれてきた剣技です。中でも有名なものが天真正伝香取神道流で、武道中興、刀槍術の始まりといわれています。流祖は飯篠長威斎家直です。同流の書によると、家直は、元中四年(1387)下総の国飯篠村の郷士の家に生まれ、幼少の頃より刀槍の術に秀でていたそうです。主家の千葉家において、武芸の達人として名をはせ、一時は八代将軍足利義政に仕えたこともありましたが、千葉家滅亡後、仕官の道をきっぱりと捨てました。戦さによって家や土地を奪われ、肉親と死に別れる人々の姿に接し、武芸をもって武士として生きることに虚しさを感じたのか、香取神宮奥の宮に程近い梅木山に隠棲しました。六十余歳にして、香取神宮に千日千夜の大願を起て、斎戒沐浴粉骨砕身修行の後、家直の脳裏に「兵法は平法なり!敵に勝つ者を上とし、敵を討つ者はこれに次ぐ」の言葉がひらめいたそうです。「兵法とは平和の法であり、敵と戦いこれを討つことではなく、戦わずして敵に勝つことこそが大事」と悟った家直は山を下り、香取の地で開眼したことから天真正伝香取神道流と名づけ、香取神宮の近くに武術道場を開きました。神道流では、剣術、居合術、棒術、薙刀術、柔術、槍術、手裏剣術、忍術、戦術、築城法等天文、地理風水、陰陽術など、格闘術だけでなく、広く戦術全般を取り入れた、本当の意味での総合格闘技、武道、武術であったようです。

PR [これからインターネット取引するならマネーパートナーズ]
| FC2アフィリエイト 格安レンタルサーバを紹介してお小遣いGET! | コムズリンクスタッフ ネットでバイトするならココ!1000〜30000円の高額報酬! |
ads by infodic. | |
奥山念流
奥山念流
念流に関するお話もシリーズ化してきました。今回は奥山念流のお話です。
奥山念流は、江戸時代初期から昭和にかけて、埼玉県上里町を中心とする旧賀美郡一帯において、盛んにおこなわれた柔術の技術を包含した剣術流派です。流祖は念阿弥慈音(奥山念僧とも呼ばれています)で、鞍馬で天狗から念流の奥義を会得して一派を起こしたので奥山念流、あるいは判官流という流名になったようです。天正から慶長年間頃に現在の本庄市の卜部家(浦辺ともいう)に伝承され、その後、元禄の頃、根岸甚右衛門によって、矢沼九郎左衛門と大畠武兵衛昌栄に伝えられ、大畠武兵衛から坂本義右衛門に伝承されたことにより、当地で奥山念流が盛んになったそうです。奥山念流は、文化年間の継承者、青木常八郎光澄の頃から、剣術と柔術とに分けられて伝承されるようになりました。剣術流派であった奥山念流が、いつから柔術を取り入れられるようになったのかは不明ですが、それ以前の資料には、柔術についての記載がみられないため、常八郎光澄が、他流派柔術を習得し奥山念流柔術としたと考えられています。二つに分かれた奥山念流剣術と柔術はその後、青木常八郎光澄が弟子達に印可を与える前に没したため、弟子達が流派がとぎれることを惜しんで、剣術は、青木常八郎光澄から松本武兵衛峯救と関口徳治光房に、柔術は青木音吉郎光長に伝授されました。
以前紹介した馬庭念流と同じように、奥山念流も土地に根ざした剣術といった感じがします。江戸時代には田舎剣法等と言われたかもしれませんが、土の匂いがするような感じがして、個人的には凄く好感を持っています。
アフィリエイトパートナー紹介で報酬600円! | バリューコマースパートナー紹介で報酬500円! |
ads by infodic. | |
馬庭念流の技術
馬庭念流の技術
馬庭念流の技術的特徴として挙げられるのは、近間の攻撃で、小技を使わず、面ばかり打ちまくるというものです。馬庭念流はかなり特殊な体捌きを用い、他流派のように送り足を用いません。構えは独特で、腰を後ろへ引き、刀の柄頭を握った左拳を顎の下へ、鍔もとを握る右拳を右肩の15cmほど上に置きます。顔を前へ突き出し、”ワシワシ”としっかり地面を踏みしめながら相手に迫ってゆきます。他流派の口伝では「腰の折れまたはかがむを嫌うなり折れてかがむはなお悪しきなり」とあるそうですが、馬庭念流では、それらとは一線を画する特殊な構えと体捌きを用います。それは、打ち込んでくる相手の刀を鍔競り合いでグイグイ押してゆくためであったようです。鍔競り合いで相手が刀を左右へ倒しながら対抗してくると、それを入れ替え入れ替えしながら、真っすぐに刀を立てさせない技術であったようです。北辰一刀流の千葉周作も、これで負けそうになったことがあるといいます。これを続飯(そくい)付けと呼びます。これらの技術を支える足腰の鍛錬は凄まじいものであったようで、中段に構えて立った者の背中に、別の者が乗って、後ろ足の膝裏に足をかけ、全体重を乗せて揺さぶるというものです。こうして練り上げた強靭な足腰の力が、鍔競り合いで有利に働き、相手に手も足も出させなかったそうです。馬庭念流は泥田ような足場の悪いところでも使える技術だったらしく、実際に泥道で稽古を行なっていたこともあるそうです。
馬庭念流は、道場稽古ではさほど強くなかったと云われています。時代劇や時代小説等に出てくるような有名な剣客が少ないのは、そのためだったのかもしれません。しかし、馬庭の地で日々田畑を耕すことによって培われた強い足腰を、更に凄まじい鍛錬で鍛え上げ、泥田のようなオープンフィールドでの戦闘法を磨いた農民達の中には、名立たる剣豪達よりも強い人物がいたかもしれませんね。馬庭念流の魅力的なところは、武家よりも庶民のために、という姿勢にあると思います。こういう馬庭念流の姿を思う時、温かいものを感じるのは私だけでしょうか。
| スマイル通販アフィリエイト 成果報酬2〜35%+2段階報酬プログラムで永続的報酬GET! | LinkShareアフィリエイト 支払いは1円から!アフィリエイトスタッフ紹介報酬500円! |
ads by infodic. | |
馬庭念流
馬庭念流
時代劇や時代小説で、なぜか主人公ではなく悪役が使う剣術として登場することが多い馬庭念流のお話です。
馬庭念流は、源流となる念流の流祖である念阿弥慈恩の弟子、板東八人、京六人の「十四哲」といわれる高弟の一人であった樋口太郎兼重を流祖としています。樋口太郎兼重は、同じ信州伊那郡の波合村に居を構えた念阿弥慈恩の高弟となり、念流の兵法を修めました。後に念流は家伝となり、兼重念流を称したそうです。兼重の子孫たちは念流を受け継ぎますが、十三代高重の代に上野国吾妻郡小宿村(長野原町応桑小宿)に移り住み、さらに上州多胡郡馬庭村に移転しました。以来、樋口家は代々馬庭の地に郷士として棲み、武芸を指南してきたそうです。そして十七代定次が念流八世を継承して後、同地の念流は「馬庭念流」と呼ばれ、現在に至っています。代々の念流継承者は郷土の兵法家として生きており、武芸を仕官のために利用することはなかったそうです。馬庭念流の門弟には武家の子弟もいましたが、多くは農民、町民であり、念流は彼らの自衛の剣として民間に普及していったそうです。その剣技はあくまで庶民の自衛の剣であり、立身出世や殺傷の道具とすることを戒めるものだったようです。
馬庭念流は時代小説などでは敵役や登場してきてもすぐに斬られてしまう、いわゆる”ちょい役”が多いような気がしてなりません。しかし、武家の子弟よりも、農民や町民のための剣術であったというところに馬庭念流代々の継承者の人物としての温かさを感じました。時代小説、特に殺陣のシーンがリアルな剣豪小説などで、剣術としての馬庭念流を主役として取り上げてほしいと願って止みません。・・・と思っていたらありました!「蟹足の剣―剣鬼・樋口又七郎定次」。よろしければ一読あれ。
| レッドへリング バナーを貼ってお小遣いGET! | A.C.T.webサポート 検索エンジン登録代行ならおまかせ!リンクスタッフも募集中! |
ads by infodic. | |
念流 念阿弥慈音
念流 念阿弥慈音
兵法三大源流の一つである念流は、奥州相馬の住人相馬四郎義元が流祖とされ、後に出家して「念阿弥」「慈恩」「念大和尚」と名乗りました。義元は四郎左衛門忠重の子とされ、忠重は新田義貞に属して戦功のあった武将だったそうです。しかし義元が五歳のときに殺害され、義元は密かに乳母に抱かれて武蔵国今宿(横浜市)に逃れたそうです。七歳のとき、相州藤沢の遊行上人の弟子となり、「念阿弥」と称しました。十歳のとき、京都鞍馬寺で異人に会って妙術を授かり、十六歳のとき鎌倉において神僧から秘伝を受け、さらに筑紫の安楽寺で剣の奥義を感得したそうです。その後還俗して仇を討ち、再び禅門に入り名を「慈恩」と改めました。慈恩は諸国を遍歴して武芸を教え、晩年に信州伊那波合村に長福寺を建立し、応永十五年(1408)、五十八歳の時に自らを「念大和尚」と称しました。没年は不詳です。
以上、念流と念阿弥慈音(慈恩)の歴史について綴ってきましたが、この慈音もまた伝説的な人物で、実在の人物かどうかも定かではなく、生きた時代も、義経以前なのか、南北朝期なのか、室町前期なのかもはっきりしないそうです。私が気になったのは、「京都鞍馬寺で異人に会って妙術を授かり・・・」というところです。異人とはいったい何なのでしょうか?外国人という事なのか、それとも・・・。古流剣術の流祖とは不思議な人物が多いですね。
| A8ネット アフィリエイトサイト会員の紹介で報酬500円! | JA-Netアフィリエイト アフィリエイトパートナー紹介で報酬600円! |
ads by infodic. | |
兵法三大源流
兵法三大源流
時代劇や時代小説などで様々な剣術流派が登場してきますが、源流を辿ると三つの流派にたどり着くといわれています。それが、兵法三大源流です。
兵法三大源流とは、念流、神道流、陰流の三つの剣術流儀を指す総称です。上泉信綱が永禄九年(1566年)に柳生宗厳へ与えた『影目録』にある兵法の歴史に出てくる中古の「念流 新当流 陰流」の三流派に由来するそうです。また、中条流を含めて兵法四大源流とすることもあります。念阿弥慈音によって創立された念流の流れを汲む流派には、馬庭念流(樋口定次)、中条流(中条長秀)、富田流(富田長家)、鐘巻流(鐘巻自斎)、一刀流(伊東一刀斎)、小野派一刀流(小野忠明)、巌流(佐々木小次郎)が、 香取、鹿島の地で受け継がれてきた剣技、神道流には、天真正伝香取神道流(飯篠長威斎家直)、鹿島新当流(塚原卜伝)、一羽流(諸岡一羽)、微塵流(根岸兎角)、天流(斎藤勝秀)、霞流(真壁氏幹)、示現流(東郷重位)が、愛洲移香斎久忠によって創立された、愛洲陰流とも呼ばれる陰流には新陰流(上泉信綱)、柳生新陰流(柳生宗厳)、疋田陰流(疋田景兼)、直心影流(山田光徳)、タイ捨流(丸目長恵)があります。
時代劇や時代小説が好きな方でなくとも、一度は聞いたことがある名前があるんじゃないでしょうか。これらの流派の流祖たち一人一人に、時には神懸ったファンタジックな伝説がありますが、それは追々書いていこうと思います。
| スマイル通販アフィリエイト 成果報酬2〜35%+2段階報酬プログラムで永続的報酬GET! | LinkShareアフィリエイト 支払いは1円から!アフィリエイトスタッフ紹介報酬500円! |
ads by infodic. | |
本多流弓術
本多流弓術
本多流は本多利實が興した射法で、全国的に認知された近現代の流派としては最も新しいものだそうです。通し矢で名高い日置流竹林派の射法に正面打起しを取り入れ、「品行徳行・体育・衛生」の意義を強調したのが特色です。本多流は元を辿れば、石堂竹林坊如成の興した日置流竹林派で、更に遡れば伊賀日置流の日置弥左衛門範次になるそうです。竹林派は京都・三十三間堂の通し矢(よくニュースなどで話題に取り上げられたりしていますよね)の天下一争いでは主導的立場にありました。長屋六左衛門忠重、吉見台右衛門経武、星野勘左衛門茂則、和佐大八郎範遠が大記録を次々と作っているそうです。本多利實は徳川幕府の旗本で、 30歳の時に父利重から日置流竹林派の印可を受けたそうです。幕末から明治にかけて弓道は廃れていましたが、利實は明治22年に「弓道保存教授及演説主意」を著し、弓道の再興に立ち上がりました。「品行徳行・体育・衛生」を重視したことから、嘉納治五郎の講道館柔道と並べられ評価を受けています。本多利實は、剛健典雅の射技を高齢になるまで自ら実践し、日置流竹林派の斜面打起し射法に正面打起しを取り入れて改革し、弦取りを活用した稽古法を確立した、など実技、射法観、稽古法で優れていたため 「弓聖」と称されているそうです。こうした利實の射術、人柄に引かれ、当時の弓界の実力者の多くが教えを請い、利實も高齢をいとわず各地に行って早朝から夜遅くまで指導に当たったそうです。
嘉納治五郎は有名ですが、本多利實をご存知の方がどれくらいいるでしょう?同じように武道を通して社会に貢献した人物なのに、本多利實は一般にはあまり知られていないのが現状ではないでしょうか。嘉納治五郎にしろ、本多利實にしろ、武道にかける情熱が伝わってきます。日本武道を大事にしたいと思いました。
| FC2アフィリエイト 格安レンタルサーバを紹介してお小遣いGET! | コムズリンクスタッフ ネットでバイトするならココ!1000〜30000円の高額報酬! |
ads by infodic. | |
日置流弓術
日置流弓術
格闘技において一大変革を起こした人物が必ずいるものですが、弓術においては日置弾正正次がそれに当たるそうです。
室町時代末期から戦国時代にかけて、日置弾正正次が興した弓道流派が日置(ヘキ)流です。日本弓術中興の祖とも呼ばれています。それまでにも武田流、逸見流、小笠原流などの流派が存在していましたが、日置流の登場によって、歩射の代表的な流儀となり日本各地に広がりました。正次は弓術修行のため諸国を遊歴し、中貫久{ちゅうかんきゅう(中てること、貫くこと、持続させること)}の悟りを開き、近江の六角佐々木氏の家臣である吉田氏を訪れ、吉田出雲守重賢に唯授一人の印可を伝えたとされています。その後、正次は再度諸国を遊歴して紀州(和歌山)高野山に入り、剃髪して瑠璃光坊威徳と号し、1500年頃59歳(没年にも諸説あります。)で亡くなったようです。正次の革新の射は、近江源氏佐々木氏の有力な家臣で、弓射の名人であった吉田出雲守重賢と、その子である出雲守重政に唯一受け継がれ、日置吉田流として確立します。その後の日置吉田流は、出雲派、雪荷派、道雪派、山科派、左近右衛門派、大蔵派、印西派、大心派、寿徳派などに分派し、日本全国に伝播していきました。数多くある流派の中でも、比較的歴史というのがはっきりしているものに日置流印西派があります。流祖は吉田源八郎重氏で、後年は徳川家康に仕え、子孫は旗本として代々徳川将軍家弓術指南役を勤めています。印西には多くの門人があり、各地に伝播してその地に印西派を根付かせていきました。また、江戸の印西派と備前(岡山)印西派は日置當流・日置当流と呼ばれています。
日置弾正正次という人物は非常に謎の多い射手で、古文書などにも定説は無く、前述の吉田出雲守重賢と同一視する見方もあります。日置流某派の伝書では「当流の元祖は、八幡大菩薩の化身なり。」と神格化までされています。しかし、日置正次・吉田重賢同人説にせよ別人説にせよ、現在とほとんど変わらない射術を作り上げた人物であることは間違いのない事実のようです。
室町時代後半に技術が確立され、現在も変わっていないというのは凄い事だし、それが一人の人物の仕事であるというのは驚きです。時代は天才によって作られるといった感じがしました。
小笠原流弓馬術
小笠原流弓馬術
弓道の流派としては、礼を重視してきた礼射系の小笠原流と実利を重視してきた武射系の日置流が代表として挙げられ、それ以外にも本多流をはじめ多数の流派が存在します。今回は小笠原流です。
小笠原家は初代小笠原長清に始まる清和源氏の家系です。小笠原長清は応保2年(1162年)甲州に生まれ、父は加賀美二郎遠光、母は日本史の教科書にも出てくる和田義盛の娘です。小笠原姓は、高倉帝より賜ったといわれ、今日小笠原姓を名乗る家は全てこの長清に発しているそうです。小笠原長清は26才のときに源頼朝の『糾方』(弓馬術礼法)師範となり、その後は長男の長経に伝えられました。長経は源実朝の師範となっています。長経には二人の男子がいました。長男の長忠と次男の清経です。弓馬術礼法は長男の長忠が伝承し、小笠原一族の惣領家となります。次男の清経の子孫も長忠家の人達と一緒に鎌倉幕府に仕え、いつも極めて近い間柄として両家一体となって行動をしていたそうです。特に長忠家7代の小笠原貞宗と清経家7代の小笠原常興は、共に後醍醐天皇に仕えて、武家の定まった方式として、 『修身論』と『体用論』をまとめました。これが小笠原弓馬術礼法の基本となっています。清経家の17代経直は、徳川家康に招かれ、徳川秀忠の弓馬術礼法師範となり、維新まで高家として幕府の弓馬術礼法の師範を務めています。
小笠原流は歴史の表舞台で脚光を浴びることが出来、現在まで生き残ることが出来た武術であり、「胸をはって堂々と」といった感じが、調べていてしました。清々しい感じがします。
| A8ネット アフィリエイトサイト会員の紹介で報酬500円! | JA-Netアフィリエイト アフィリエイトパートナー紹介で報酬600円! |
ads by infodic. | |
弓術
弓術
素手による格闘技や剣術、棒術などの体から離れない武器による武術は、格闘技が好きな人の話題に上ることがありますが、弓道(術)になると途端に話題に上らなくなります。武芸18般の一つに数えられながらこの扱いはあまりにも寂しいので今回取り上げてみました。
日本の弓の歴史は古く、石器時代の弓と思われるものが発見されています。弥生式土器使用の時代と推定され、黒塗りの丸木弓の長弓で樺で隔巻してあったそうです。また石器時代末の製作といわれる銅鐸に狩猟の絵があり、長弓で「握り」が下部に描かれています。中国の魏志倭人伝にも、日本人の使用した弓は長弓であることが記されているそうです。中国の弓文化の日本文化への影響は多く、日本の古代からの弓矢の威徳の思想と、中国の弓矢における礼の思想は、朝廷行事としての射礼の儀を生み、武家時代には弓矢を通じての礼の思想となりました。中国の「射をもって、君子の争いとなす。」という射礼思想です。これがやがて日本固有の武家思想と結びついてゆきます。平安時代の中頃(10世紀)に現われた伏竹弓、平安末期(12世紀)にできた3枚打等は、中国の合成弓製作の技術を取り入れ、竹と木の合成弓にしたものです。源 頼朝が鎌倉幕府を開いたとき、弓馬の修練をもって技術を通じての精神の到達点として武士の道義を確立しました。武士の身心の鍛錬および戦闘技術の訓練として、犬追物、笠懸等の騎射も盛んに行なわれたことは、吾妻鏡にも明らかです。吉野朝動乱の時代から、室町時代に至る頃は弓術における技術革新の時代でした。後醍醐天皇のとき、武家社会に伝承された弓法は小笠原貞宗・常興によって集大成され、弓馬術礼法の基準が確立されました。射術の書としては今川了俊が了俊大草紙に当時の射法を詳細に示しています。日置流の祖日置弾正正次も、この時代の人です。この技法は、実践の射として普及しました。その後、多くの分派、流派が発生しましたが、鉄砲が普及してからは、心身鍛練の弓道として確立されました。
オリンピックの競技にアーチェリーがありますが、もしも東洋弓部門として弓道があったら、また違ったオリンピックの見方が出来て面白いだろうなと思います。
| スマイル通販アフィリエイト 成果報酬2〜35%+2段階報酬プログラムで永続的報酬GET! | LinkShareアフィリエイト 支払いは1円から!アフィリエイトスタッフ紹介報酬500円! |
ads by infodic. | |









