2008-10


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神道流 2

格闘技・武道・武術四方山話

神道流 2


 飯篠長威斎家直は真言密教にも長じていました。真偽の程はわかりませんが、熊笹の上にムシロをかけ、その上に座っても笹が曲がらなかったといわれています。他流仕合を申し込む者にこれを見せることによって、相手の戦意を喪失させるという、彼一流の兵法だったのかもしれませんね。彼は「真言を唱うれば、後ろ向きにても勝てる」と言ったともいいます。これもこう言っておけば、他流試合を申し込んでくる者の数を減らし、余計なトラブルを防ぐためには効果的だったかもしれません。こういったトラブルを回避するためのある種の、いい意味での方便は、格闘技を行う上でとても重要だと思います。
 家直はそれまでの武術にはなかった、くさり鎌、棒術、薙刀、槍、小太刀、二刀流など百般にわたる武道の原型を創りあげましたが、門人達には「真実の武道は人の心にあり、人の道である。心の中が善であれば、武芸は人を助け世の中を平和にする。したがって自分自身を完成された人間に近づける努力をしなければならない」と諭し、人を殺傷するための武術を心身鍛練の術にまで高め、武士から庶民まで広く教えたそうです。晩年の家直は、生家の近くに如意山地福寺を創建し、その2年後、102歳で大往生をとげたということです。




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神道流

格闘技・武道・武術四方山話

神道流


 兵法三大源流の一つに数え上げられる神道流のお話です。
 神道流は香取、鹿島の地で受け継がれてきた剣技です。中でも有名なものが天真正伝香取神道流で、武道中興、刀槍術の始まりといわれています。流祖は飯篠長威斎家直です。同流の書によると、家直は、元中四年(1387)下総の国飯篠村の郷士の家に生まれ、幼少の頃より刀槍の術に秀でていたそうです。主家の千葉家において、武芸の達人として名をはせ、一時は八代将軍足利義政に仕えたこともありましたが、千葉家滅亡後、仕官の道をきっぱりと捨てました。戦さによって家や土地を奪われ、肉親と死に別れる人々の姿に接し、武芸をもって武士として生きることに虚しさを感じたのか、香取神宮奥の宮に程近い梅木山に隠棲しました。六十余歳にして、香取神宮に千日千夜の大願を起て、斎戒沐浴粉骨砕身修行の後、家直の脳裏に「兵法は平法なり!敵に勝つ者を上とし、敵を討つ者はこれに次ぐ」の言葉がひらめいたそうです。「兵法とは平和の法であり、敵と戦いこれを討つことではなく、戦わずして敵に勝つことこそが大事」と悟った家直は山を下り、香取の地で開眼したことから天真正伝香取神道流と名づけ、香取神宮の近くに武術道場を開きました。神道流では、剣術、居合術、棒術、薙刀術、柔術、槍術、手裏剣術、忍術、戦術、築城法等天文、地理風水、陰陽術など、格闘術だけでなく、広く戦術全般を取り入れた、本当の意味での総合格闘技、武道、武術であったようです。




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空手の父、船越義珍 3

格闘技・武道・武術四方山話

空手の父、船越義珍 3


 東京にとどまり,空手の普及につとめていた船越義珍は、1924年に鎌倉円覚寺慧訓管長の指導もあって、従来沖縄で「手(てぃ)」又は「唐手(とうでぃ)」と呼ばれていた「唐手」の文字を「空手」に改め、更に「空手術」を「空手道」に変更しました。「空」の文字には「徒手空拳にして身を守り敵を防ぐ」武道の心を象徴すると共に、般若心経の思想を含めたようです。空手に、それまでなかった段位制度をとりいれたのもこの年です。
 1936年に空手道を研究する人達の関係を深めることを目的に設立した「大日本空手道研究会」を「大日本空手道松濤會」に改称しました。1939年念願の空手道専門道場「大日本空手道松濤館」を主要門人達の協力を得て、目白・雑司ヶ谷に創建しました。「松濤館」は大日本空手道松濤會本部道場として、技術面の中心的役割を果たし、現在行われている、基本・型・組手の稽古体系を確立しました。また、大極の型、組手「天之型」、棍の型「松風」を考案しました。こうして数多くの空手家を育てた義珍は、「空手に先手なし。空手の目的は相手を倒すことではない。厳しい鍛錬に耐え,自分の内に潜む敵に勝つことである」として、空手を学ぶ者の心得、空手道修行者の人生訓として「空手道二十訓」を示し、暴力に走る事を強く戒めたそうです。
 船越義珍を描いた小説でお気に入りのものは、今野敏 著の義珍の拳です。空手を広めようとする義珍の姿が良く描かれていて、とても面白いです。アクションシーンはありませんが、そこがかえってリアルな感じがしていいと思います。
 義珍の空手の形の演武は、現在のように腰を落とさず、狭い歩幅で歩くようなものであったと、何かの本で読みましたが、「空手を広めるために万人にわかりやすい形に変えはしたが、これが唐手本来の姿なんだ!」という義珍の心の声が聞こえてきそうなエピソードだと思いました。





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空手の父、船越義珍 2

格闘技・武道・武術四方山話

空手の父、船越義珍 2


 ”空手の父”といわれる船越義珍が沖縄から本土に渡ってからのお話です。
 沖縄で沖縄尚武会の代表をつとめ、唐手の普及に尽力していた義珍は、海軍の八代艦隊が沖縄に寄港した際、選抜された水兵に一週間指導をしましたが、その威力が危険視され海軍は採用を見送ったそうです。1921年3月、昭和天皇がまだ皇太子であった頃、渡欧の途中沖縄に立寄り、その時に義珍は演武の指揮者として、師範や中学の生徒を選抜し、首里城正殿の大広間で唐手演武の指揮を執り台覧に供しました。昭和天皇は「唐手の霊妙なること」と言う感想を述べたそうです。1922年5月、東京において文部省主催の第一回古武道体育展覧会に沖縄県学務課の要請で出席し唐手を紹介しています。これが日本本土での初公開でした。義珍は形の演武、及び、その他を図解したものを作成出展し説明しました。その後、各所で唐手の講演や実演を行いました。結局、沖縄に帰郷することなく東京に在住し、大学・警視庁にも指導に赴き「唐手研究会」と言う名称のもとに、その普及を図ったそうです。
 海軍が危険視し、採用を見送るほどの技術とは一体どのようなものであったのでしょう。この時披露された技術の中には、現在は失伝してしまったものもあったかもしれません。それを思うと、少し寂しい思いがします。




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空手の父、船越義珍 1

格闘技・武道・武術四方山話

空手の父、船越義珍 1


 松濤館流空手の創始者にして、日本空手協会を創設した”空手の父”といわれている船越義珍のお話です。
 明治元年、沖縄県那覇市(首里)の士族(容氏)の家に生まれ、旧姓は富名腰といい、のち船越と改姓しました。幼い頃の義珍は、7ヶ月の早産だったということもあり、身体が小さく、とてもひ弱であったそうです。そんな一人息子の健康を案じた父親は、義珍が11歳のとき、唐手を習わせることにしました。琉球王国が滅び、沖縄県となったころのことです。義珍を指導したのは、首里手の達人として知られた安里安恒と糸洲安恒でした。体力づくりではじめた唐手でしたが、一つの技に2、3年もかけるといわれるほど厳しい修行に耐え,着実に腕を上げていきました。唐手の修行だけでなく、勉学の方にも力を注ぎ、小学校を卒業すると独力で学問を続け、19歳のときに学校の教師の資格をとっています。小学校の教師をながく勤めたあと、県立中学や師範学校で唐手の指導にあたっています。1905年には,仲間とともに県内ではじめて唐手の公開演武をおこない、当時空手は秘術とされていたので、大変な注目を浴びたそうです。
 私が中学生時代、初めて入門した流派が松濤館流空手でした。当時は、これが空手だと思っていましたが、年齢を重ねて、知識が増えるにしたがって、本来の空手の戦闘法とは違うのではないかと思うようになりました。おそらく、船越義珍が使ったであろう唐手の技術は、彼が唐手を広めるために作り上げた”空手”とは違ったものであったのではないでしょうか?もしかすると、彼自身が、これでいいのだろうか?と疑問を持ちながら、それでも空手を広めたいと思っていたかもしれませんね。いずれにしても”空手の父”であることにはかわりがないと思います。


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最強力士伝説 雷電爲右エ門 5

格闘技・武道・武術四方山話

最強力士伝説 雷電爲右エ門 5


 圧倒的な強さを誇りながら、なぜ雷電は横綱にはなれなかったのか。これは相撲史上最大のミステリのひとつです。
 一般に広く知られている説としては、当時は横綱が大関の中でも秀でた存在という認識がなかったためというものがあります。しかし、すでに横綱免許を受けた小野川を相手に互角以上に渡り合っていたということから、これは疑問視されています。庶民の間に伝わる講談などでは、遺恨相撲で相手を死亡させてしまったためなどとされていますが、当時の星取表からすると、これはまったくの創作だそうです。酷いものとしては、容姿が醜く、谷風や小野川に比べると人気が劣っていたためではないかという意見まであります。しかし、現在に残る錦絵などを見てみると、それほど醜いということもないことからこれも否定的に見られています。個人的にはこれではないかと思うのが、当時の力士は藩のお抱えであった為、藩の持つ力によって昇進が左右されることもあり、雷電もその例外ではなかったという説です。「雷電日記」の記述の中に、出雲大社での土俵入りというものがあることから、相撲史研究家の小島貞二氏はその著書「力士雷電」の中で、出雲大社から横綱免許を受けその本殿で生涯一度だけの横綱土俵入りを行った姿を描いていますが、これはあくまで推測であり、仮説としてはやや強引に過ぎるとされているようです。
 結局、なぜ雷電が横綱になれなかったのかという謎ははっきりとわかってはいないようです。しかし、もし雷電が横綱であったとしたら、庶民の人気が少し落ちていたかもしれませんね。強すぎる横綱は、嫌われるということは、現在でもありえることです。それよりも、横綱になれない強すぎる大関の方が、庶民からは同情を込めて支持されそうです。もしかすると、雷電の人気を借りて、相撲人気をより高めるために、わざと雷電を横綱にしなかったという、興行側の思惑があったのかもしれませんね。

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最強力士伝説 雷電爲右エ門 4

格闘技・武道・武術四方山話

最強力士伝説 雷電爲右エ門 4


 無類の強さを誇った雷電も無敗だった訳ではなく、幕内通算で10敗しています。雷電に勝ったというだけでも大相撲史に名を残すほど話題になったようです。中でも陣幕、市野上、柏戸の名が高いです。陣幕は、上覧相撲での立ち合い一気ののどわ攻めという正攻法による勝利で雷電を負かした力士として伝わっています。ただ、この取組は雷電にとって初土俵2場所目で、しかも上覧相撲ということで、雷電に緊張があったのではといわれています。柏戸は雷電との取組が12回あり、それぞれ好勝負を繰り広げ、好敵手の筆頭にあげられています。この2人の取組は江戸の庶民にも大変人気があり、何を質に入れても見物に行くとまで言われていたそうです。市野上は雷電に連勝した唯一の力士で、寛政3年から12年までの9年間、雷電は彼にしか負けていないということになります。市野上に2敗しなければ、雷電は106連勝に達していたことになります。いつの時代にもこういう劇的勝利をする競技者がいるものですね。生涯最高の大番狂わせで名を残した力士としては鯱が挙げられます。寛政12年の、この取組は雷電にとっては痛恨の黒星だったようです。立ち合い大きく変わっていなされたか、後ろにまわりこんでの送り出しという、所謂注文相撲での敗北だったそうです。
 雷電に勝ったという、そのこと自体が伝説になるということは、逆に雷電がいかに強かったかという証明になっていますね。陣幕や柏戸は雷電に並ぶほど強い力士という感じがしますが、市野上や鯱は雷電に勝ったとき、「勝っちゃった・・・」と勝った本人が信じられなかったんじゃないかと想像してしまいました。

最強力士伝説 雷電爲右エ門 3

格闘技・武道・武術四方山話

最強力士伝説 雷電爲右エ門 3


 凄まじい強さを誇った雷電も、よる年波には勝てず、文化8年(1811年)2月の全休を最後に現役を退きました。その後は松江藩相撲頭取に任ぜられています。引退後の雷電は、後の7代横綱稲妻雷五郎を見出したりと、相撲界に尽力したそうです。その他、文化11年(1814年)大火で焼失した報土寺の鐘楼と釣鐘の再現にも力を尽くしましたが、幕府上役にはこの鐘の形状などが不満だったらしく、江戸払いに処せられています。文政2年(1819年)には藩財政緊縮、所謂リストラで相撲頭取職を解任されてしまいました。詳細を伝える資料は少ないですが、晩年は妻八重の生地下総国臼井(現千葉県佐倉市)でながく暮らし、ここで亡くなったそうです。墓所は、鐘楼と釣鐘の再現に力を尽くした東京都港区赤坂の報土寺にあります。他に、生地の長野県東御市の養蓮寺、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市の浄行寺、島根県松江市の西行寺にも雷電の墓と称するものがあります。当時の力士としては高い教養を持っていたそうで、通称「雷電日記」といわれる「諸国相撲控帳」や「萬相撲控帳」を残しています。これらの資料は相撲に限らず、江戸の風俗を知る上でも貴重な資料となっています。生涯戦績は幕内通算 35場所 254勝 10敗 2分 14預 5無勝負 41休でした。
 晩年は相撲界にとどまらず、様々な事で活躍している割には、江戸払いになったり、リストラにあったりと、決して恵まれていたとはいえない人生だったようです。しかし、力を尽くした報土寺に墓所があるということは、庶民からは支持されていたのではないかなぁと想像できます。というより、そうであってほしいと思いました。

最強力士伝説 雷電爲右エ門 2

格闘技・武道・武術四方山話

最強力士伝説 雷電爲右エ門 2


雷電の初土俵は寛政2年(1790年)11月のことで、いきなり付け出しで関脇としてデビューを果たしました。抱えられていた親藩松平家の影響力も大きかったようです。しかし、同じ雲州抱えの実力者、柏戸勘太夫(小結)の上におかれていたということは、彼に対する期待度が大きかったということでしょうか。そしてこの場所で初土俵にして8勝2預と現在でいう幕内最高優勝を果たしています。異説もあるようですが、現在の優勝に相当する成績を27回残しています。この記録は年2場所制の時代のもので現在の年6場所制だったら、いったいどれほど記録を伸ばしていたかしれません。ちなみに現行の年6場所制となった以降で、この記録を破っているのは、大鵬(32回)と、千代の富士(31回)のわずか二人だけです。あの朝青龍でも現時点で15回です。一場所で2敗することはついになく、同じ相手に2度負けることも花頂山一人を除いてなかったそうです。有名な逸話としては、あまりの強さに「鉄砲(つっぱり)」「張り手」「閂(かんぬき)」を禁じ手とされたというものがありますが、これは後世になって作られたものという説が有力だそうです。現にその相撲を目撃した人たちの証言資料によれば、雷電の取り口は突き押し専門で現役を通して変わらなかったそうです。それ位に強かったということでしょう。
 年2場所制の時代に優勝回数27回というのは凄すぎますね。年6場所制時代の記録である大鵬の32回に後5回だけなので、あっさり記録を塗り替えていそうですね。それも驚きですが、初土俵でいきなり関脇というのは、雷電にとってはどれほどのプレッシャーであったかを考えると怖くなります。優勝したからよかったけれど。

最強力士伝説 雷電爲右エ門 1

格闘技・武道・武術四方山話

最強力士伝説 雷電爲右エ門 1


 相撲通に「最強の力士は誰ですか?」と尋ねると、多くの人が挙げるであろう力士が雷電爲右エ門です。
 雷電爲右エ門(らいでん ためえもん、1767年〜1825年4月9日)は、信濃国生まれの江戸時代の大関です。通算で喫した黒星はわずかに10で、9割6分2厘という脅威の勝率で、史上最強力士に推す意見も多い力士でありながら横綱免許は受けませんでした。しかし、富岡八幡宮の横綱力士碑に「無類力士」として顕彰されており、横綱と同列に扱われています。幼名を太郎吉(樽吉)といい、少年期から体が大きく、怪力にまつわるさまざまな伝説が残っています。やがて相撲好きな隣村の庄屋であった上原源五右衛門の目にとまり、彼のもとで相撲を習っていたそうです。天明4年(1784年)9月、地元に巡業に来ていた江戸相撲の浦風林右衛門が彼を目にとめ、ともに江戸へのぼりました。江戸では当時の第一人者谷風梶之助の預り弟子となり、初土俵までの6年を過ごしました。この間、将来有望であるとして、出雲国松江藩松平家のお抱え力士となっています。当時、初土俵前から士分に抱え上げられるというのは異例だったそうです。「雷電」という四股名はもともと巨人力士釈迦ヶ嶽雲右エ門の看板大関の下で実力関脇をつとめ、晩年には松江藩相撲頭取に任ぜられた雷電爲五郎のように雲州ゆかりのものであったようです。
 私は相撲が大好きで、格闘技としてK-1やPRIDEと同じように相撲には盛り上がってほしいと願って、相撲の話題を取り上げてみました。雷電がきっかけとなって、少しでも相撲に興味を持つ人が増えてくれたらいいなぁと思います。

古代オリンピックのボクシング

格闘技・武道・武術四方山話

古代オリンピックのボクシング


 現在、格闘技のトップブランドとして、技術も知名度も高いボクシングですが、その歴史は紀元前にまで遡ります。
 かつてのボクシングは現在のようなリングではなく、砂場のような競技場で行われていました。1R3分のような時間的制約もないため、インターバルに汗や血を拭ったり、止血したりする時間もなく、ノックアウトし、片手を上げて勝ち名乗りを受けるまで休むことなく闘い続けたそうです。手にはグローブではなく、皮製のヒマンテスと呼ばれるものを巻き、腕の方には柔らかいものを当て、その上に皮紐を巻きつけたものを着用していたそうです。ローマ時代には金属のついたものも使用され、殺傷力は非常に高まり、競技者の顔は傷だらけになったそうです。当時から、顔に向かって放たれるパンチをかわすための技術として、フットワークが重視されていたといわれています。このように危険なヒマンテスを着けて闘えば、当然流血しますが、当時の人々にとっては、流血とは神に生け贄を捧げるという意味に捉えていたそうです。また、現在のように体重別の競技ではなく無差別であったため、強い競技者の多くは大型であったようです。ボクシング競技は紀元前688年の第23回から種目に加わっており、紀元前616年の第41回からは少年部も種目に加わっています。
 ルールが選手の生命を考えたものに整備された現在でも非常に危険な格闘技であるボクシングですが、紀元前のものは更に凄まじいものですね。もし当時のままのルールであったとしたら、現在のように認められた存在にはなっていなかったかもしれませんね。

諸賞流和術の伝説

格闘技・武道・武術四方山話

諸賞流和術の伝説


 激烈な当身の強さで知られた諸賞流和術は、盛岡藩の流儀として御留流になりました。第54代諸賞流師範佐藤延学の時に、その技術の凄まじさを証明する出来事がありました。それは殿中で開催された甲冑試合での出来事です。佐藤延学自身は老齢で病に伏せっていたため、代わりに門下生の松橋宗年が出場することになりました。そこで貸し出された防具を見た松橋は、試合を辞退すると言い出しました。理由を訊かれた彼は、鎧を柱にくくりつけると、水月に当たる部分に肘打ちを入れました。外側にはこれといった変化がありませんでしたが、鎧を外してみると、鎧の内側が破壊されていたそうです。このことがきっかけとなり、以降他流仕合が禁止となり、藩中での稽古のみが許可されることとなりました。また、諸賞流の秘伝に「雁金」というものがあります。この技術は人間の肩胛骨を一瞬で引き外してしまうという、極めて危険な技であるそうで、印可を受けた者の人格を充分に検討した上で授けられるそうです。
 1300年以上の歴史を持つ諸賞流和術は、消えてしまった幻の武術ではなく、現在でも岩手県盛岡市に連綿とその道統が伝えられています。もしも、総合格闘技の試合に諸賞流和術の印可を受け、秘伝「雁金」を授けられた選手が登場してきたとしたら、どのようなことになるのか非常に興味惹かれるところです。登場するというだけでも、ドキドキしてしまいます。

諸賞流和術の技術

格闘技・武道・武術四方山話

諸賞流和術の技術


 諸賞流の技には、坐った姿勢から行なう技術である「小具足と」、立った姿勢から行なう技術である「立会」が基本となっています。稽古は、「表・ほぐれ・裏」の三種に分かれていて三重取りというそうです。表稽古では攻めてくる相手に目潰し・投げ・逆手・当身・固めなどの技で対抗する技術を学びます。ほぐれとは読んで字のごとく「解きほぐす」という意味で、投げられたり逆を取られたりという不利な状況になった時、瞬時に敵の攻撃を逃れて攻め返すカウンターの技術を学びます。裏稽古は、諸賞流で最も重要視されている当身技を中心に学びます。当身技術の内容には、目潰し・肘打ち・蹴りの三種があり、甲冑での組討ちを前提としているためか、素肌で行なう他流の柔術のような打撃はありません。裏稽古は面・胴・小手のような防具を着けて行ないます。胴は、強靭な鹿児島竹を幅一寸一分に揃えてつなぎ、中に布を厚く詰めたもので、野球のバットで思い切り殴ってもその衝撃に人体が耐えられるほど頑丈ですが、諸賞流の当身技はその防具を着けていても、打撃を受けた相手が吐血するほど強烈なものだったそうです。
 甲冑を着けた状態での戦闘を前提としているためか、えげつない技術が多いですね。1300年以上の歴史ということとあいまって、少々不気味な感じがするほどです。命のやり取りを前提とした武術の凄まじさを感じます。しかし、防具を着けた胴に打撃を加えて相手が吐血するような技術がどのようなものであったのかは興味惹かれるところです。

諸賞流和術

格闘技・武道・武術四方山話

諸賞流和術


 1300年も遡り、日本史の教科書に登場してくる藤原鎌足を流祖とする武術が諸賞流和術です。
 諸賞流和術の「和」ですが、「和」と書いて「やわら」と読ませます。皇極四年(645)、舒明天皇と、皇極天皇の子の中大兄皇子と共に、それまで朝廷の実権を握っていた蘇我氏を滅ぼした事件、大化の改新に功のあった中臣鎌足、後の藤原鎌足が流祖とされています。この流派は、激烈な当身技が特徴であったようです。当時は、鎌足が目的達成を祈願した際に、天から遣わされた狐が現れて、ひと振りの鎌を授けた、という伝説から「狐伝流」と称していました。藤原鎌足が死んで150年経過した頃、狐伝流が絶えようとしていましたが、坂上田村麿が復興させ「観世流」と称しました。その後、観世流27代目・毛利宇平太が流名を「諸賞流」へと改めました。このため諸賞流では修行段階によって各流名が使い分けられていて、印可有伝の位になると「観世的真諸賞要眼狐伝流」という長い流名が免状に記されます。それだけ開創以来の歴史と経過の中で、複数の流儀と重層的に重なり合い、完成されてきた武術だということでしょう。諸賞流は47代宗家・岡武兵衛庸重から、盛岡藩の流儀として伝わるようになりました。さらに54代当主の時に門外不出の御留流となりました。以来、藩内で秘密裡に稽古されるようになったそうです。
 1300年も前に発生した武術の割には、想像していたより詳しい来歴が残っている事に驚きました。やはり、御留流となったことが影響しているのでしょうか。いずれにしても、資料を残してくれた人物に感謝です。

奥山念流

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奥山念流


 念流に関するお話もシリーズ化してきました。今回は奥山念流のお話です。
 奥山念流は、江戸時代初期から昭和にかけて、埼玉県上里町を中心とする旧賀美郡一帯において、盛んにおこなわれた柔術の技術を包含した剣術流派です。流祖は念阿弥慈音(奥山念僧とも呼ばれています)で、鞍馬で天狗から念流の奥義を会得して一派を起こしたので奥山念流、あるいは判官流という流名になったようです。天正から慶長年間頃に現在の本庄市の卜部家(浦辺ともいう)に伝承され、その後、元禄の頃、根岸甚右衛門によって、矢沼九郎左衛門と大畠武兵衛昌栄に伝えられ、大畠武兵衛から坂本義右衛門に伝承されたことにより、当地で奥山念流が盛んになったそうです。奥山念流は、文化年間の継承者、青木常八郎光澄の頃から、剣術と柔術とに分けられて伝承されるようになりました。剣術流派であった奥山念流が、いつから柔術を取り入れられるようになったのかは不明ですが、それ以前の資料には、柔術についての記載がみられないため、常八郎光澄が、他流派柔術を習得し奥山念流柔術としたと考えられています。二つに分かれた奥山念流剣術と柔術はその後、青木常八郎光澄が弟子達に印可を与える前に没したため、弟子達が流派がとぎれることを惜しんで、剣術は、青木常八郎光澄から松本武兵衛峯救と関口徳治光房に、柔術は青木音吉郎光長に伝授されました。
 以前紹介した馬庭念流と同じように、奥山念流も土地に根ざした剣術といった感じがします。江戸時代には田舎剣法等と言われたかもしれませんが、土の匂いがするような感じがして、個人的には凄く好感を持っています。 


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